自分の感性と思っているものは実は自分の内面から出ているものではないのではないか?
何を馬鹿なことをとおっしゃられるかもしれませんが
自分の姿を自分で見ることができないように
自分の感性と思っているものも同じように自分のものではないのではないでしょうか?
対象物がこう感じているであろうことを自分が感じているだけでは?
なぜなら、自分の姿を自分で見ることができないわけだから
自分の置かれている状況は自分が一番見えていない可能性が大きいですよね
となるとですよ、自分の感じるべき感性と言うものも自分が一番わかっていない可能性が大きくはないでしょうか?
だから正しいかどうかはわかりませんが自分の感じるべき感性をどうにか知るためにはあわせ鏡のようにして相手の反応から推しはかるしかないと思ってしまうのではないでしょうか?
だから無意識に人は周りの反応を気にしているのでは?
でもそれはその理屈の上でもその鏡がせいじょうであればの話ですよね
その鏡の感性がいびつで歪んでいて穢れていたらあてにしてはいけませんよね
そして争いごとになるのも自分事よりも悲惨な他の何かをどうにかするためと言うことの方が多いですよね
そのためのプロパガンダが盛んに行われているのが世界の現状です
そのように自分が感じるべきものというのが実は意外とおろそかになっているような気もします
自分自身を感じるには
そうなるとやはり禅とかが有効になってくるんでしょうかね
どうなんでしょう